天津爆撃の戦利品
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昭和12年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が全面的に拡大され、日本が完全な戦時下に入ると大阪城の観光規制が始まった。まず撮影の規制が始まり、観光客は大手門を入るときに番所にカメラを預けないと中に入れなくなった。昭和15年には軍事施設や軍需工場が見られないように、天守閣の大半が閉鎖されてしまった。昭和17年秋になると市民の手から軍部に接収され、観光客はもちろん大阪市民も城内へは一切入れなくなった。
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大阪城天守閣はさまざまな困難をのりこえ昭和6年11月7日竣工のはこびになった。昭和4年の世界大恐慌による深刻な不景気、昭和6年9月の満州事変勃発という暗く重苦しい時代に、天守閣復興は明るく夢のあるニュースだった。「天守閣小唄」「恋の大阪城」という記念レコードまで作成され、町中の蓄音機店でこれらの歌が一日中鳴り響いた。そこには不況を脱したいという市民の期待と悲願がこめられていた。
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天守閣復興のもうひとつの困難は難しい最新式の工法にあった。天守閣を永久的なものにするため、防火、耐震、耐久性にすぐれた当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りが選択された。地上55㍍の高層建築であり、おまけに非常に入り組んだ複雑な構造している総重量1万1千トンに達する建造物である。建築史上でも前例のない画期的な工事となった。この困難な工事の引き受けてがなかなあらわれなかった。しかし、最終的には地元の大林組が請負にふみきった。起工は昭和5年5月6日であった。
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天守閣の復興にはさまざまな困難があった。その最たるものが軍部の反発であった。当時大阪城跡は軍用基地であった。本丸の中には師団司令部の本部などがあり、機密保持のため原則として一般市民は立入禁止の区域であった。天守閣を復興し一般開放するというのは、基地を見下ろす拠点をつくる」ようなものである。天皇の御大典記念事業という大義名分がなければとうてい軍部は認めなかったであろう。最終的に軍部はいくつかの条件をだしてこれを認めた。その条件とは、第4師団司令部のために
新しい庁舎を寄付すること、また軍部が必要とする場合には、天守閣を軍用施設として使用することなどであった。
その結果、天守閣復興のため市民から集められた150万円の53%にあたる80万円が師団司令部建設資金として支出された。この建物は戦後大阪市立博物館として使用されたが、現在は使用されていない。
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| 夜を賭けて 著者:梁 石日 |
日本三文オペラ と日本アパッチ族と本作品で大阪砲兵工廠3部作を読破したことになる。この作品は90年代に書かれた作品。在日朝鮮人の目から書かれている。一日一日を生き抜く執念が伝わってくる。そして北朝鮮への帰国運動に翻弄される姿もリアルに描かれている。朝鮮人専用の大村収容所のことは初めて知った。当時の日本政府が戦後こんな非人道的な事を平気で行っていたとは驚きであった。戦後の時の流れを感じさせてくれる重厚な作品でした。
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