2008年12月13日 (土)

今日は何の日

日本軍、南京を占領

12月13日

 日中戦争中の1937(昭和12)年のこの日、上海戦線を突破した日本軍は中国の首都南京を占領した。以後、約1週間、日本軍は強姦、略奪、放火、虐殺などの蛮行を繰り広げた。この様子が海外に報道され、国際的な批判の的となった。しかし、日本国内ではその事実はいっさい知らされず、敗戦後の東京裁判で初めてその事実が明らかにされた。この南京大虐殺については、現在もまだ、その事実を否定しようという人たちもいて、犠牲者数については、さまざまな見解が存在する。現在の中国政府は30万人という数字をあげている。

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2008年11月 3日 (月)

今日は何の日

11月23日

大日本産業報国会創立
1940年のこの日、大日本産業報国会が創立された。日中戦争開始後の1938年から労資が一体となって戦争に協力しようという産業報国運動がすすめられていた。1940年にはいって政府は、労働組合を強制的に解散させ、警察の指導の下に各事業所ごとに産報組織をつくらせることに踏み切った。その全国組織が大日本産業報国会である。産報は労働者を監視し、不平や不満をだすことを許さなかった。この産報を通じてさまざまな配給が行われたため、労働者はいやでも産報に従わざるをえなかった。こうして、産報は労働者を侵略戦争へ動員していくうえで大きな役割をはたした。

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2008年11月 2日 (日)

今日は何の日

政府、原子力空母寄港承認

1967年(昭和42)のこの日、日本政府はエンタープライズなどアメリカの原子力艦艇の日本寄港を認め、アメリカに通告した。1965年に、エンタープライズがアメリカ第7艦隊に配備されて以来、日米間の懸案となっていた寄港問題がこれにより解決した。当時、ベトナム戦争の激化により、アメリカ側は乗員の休養、補給、修理のため原子力空母の日本寄港を強く求めていた。わが国のベトナム戦争に対する協力や核持ち込みの問題などをめぐって、野党・国民から強い批判が巻き起こった。

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2008年10月21日 (火)

今日は何の日

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10月21日

出陣学徒壮行会を開催

 1943(昭和18)年10月2日、文化系学生などの徴兵猶予が停止された。このため、学業を捨てて戦場に赴くことになった学生の壮行会が、この日、神宮外苑競技場で開かれ、関東地区の出陣学徒数万人が雨中の行進を行った。学徒たちは、ただちに徴兵検査を受けて同年末、一斉に入隊した。
 なお、戦後の1966(昭和41)年のこの日には総評のよびかけで、アメリカのベトナム侵略戦争に抗議する政治ストが日本全国で取り組まれた。以後、10月21日は国際反戦デーとして反戦平和のための行動日となっている。

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2008年8月11日 (月)

今日は何の日

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関東防空大演習を嗤う

 1933(昭和8)年のこの日、反骨のジャーナリスト桐生悠々は『新濃毎日新聞』に上記のタイトルの評論を発表した。桐生はこの中で「帝都の上空において、敵機を撃つが如き作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一つのショーにすぎない」と酷評した。
 これに激怒した軍部の圧力で桐生は主筆を追われることになったが、その後も個人雑誌『他山の石』を発行し旺盛な言論活動を続け、最後まで軍部の圧力に屈することはなかった。

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2008年7月 7日 (月)

今日は何の日

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廬溝橋事件

 1937(昭和12)年のこの日、北京郊外の廬溝橋付近で日本軍が演習をしていた。そこに、機関銃の銃声が鳴り響いた。日本軍はすぐに戦闘態勢をとった。
 翌早朝、日本の連隊長は射撃開始を命令、中国軍と戦闘に入り、堤防一帯を占領した。日本政府は「事件不拡大・現地解決」の方針を決め、中国側と停戦協定を成立させた。しかし、その同じ日に近衛内閣は陸軍の提案を受け入れ「重大決意」をもって華北への増派を決定。
 関東軍、朝鮮軍の増援部隊が続々と現地到着。これから日中の全面戦争が始まった。

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2008年4月10日 (木)

今日は何の日

1981年4月10日

米原潜あて逃げ事件が発覚

 1981年のこの日の早朝、自衛艦が東シナ海を漂流中の船員13人を救助した。ついで同日夜、米大使館は原子力潜水艦ジョージ・ワシントンが貨物船日昇丸に衝突したことを通告してきた。米側の報告は事件発生からなんと35時間後であった。ここに及んで、9日午前、米原潜が日昇丸に衝突、わずか15分後で同船は沈没したことがわかった。しかも、米原潜は乗組員の救助もせず立ち去っていたことが判明し、国民に大きな衝撃を与えた。そして事件から13日後の21日になり行方不明の船員2人の遺体が発見された。いまだに事件の真相は米側の軍事機密ということで謎に包まれたままだ。

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2008年2月22日 (金)

肉弾三勇士キャンペーン開始

 1932年のこの日、上海をめぐる日中両軍の攻防戦の中で、3人の一等兵が、鉄条網破壊用に爆薬を装填した破壊筒をかかえて中国軍陣地に突入し破壊筒もろとも爆死した。これは導火線の長さを間違えたための事故死であった。しかし、軍部はこれを肉体もろとも鉄条網を破壊した美談につくりあげ、「肉弾三勇士」とネーミングして国民の戦争支持熱を高めるきゃーんぺーんを展開した。マスコミはこぞってこれをとりあげ、新聞・ラジオは連日センセショーナルに報道し、続いて映画、演劇、講談の題材になり本も出版された。こうして空前の「三勇士ブーム」が巻き起こされ、国民の戦争支持熱は一気に高まっていった。

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2008年2月20日 (水)

今日は何の日

小説家であり日本共産党の活動家でもあった小林多喜二は1933(昭和8)年のこの日、特高警察により虐殺された。小林の遺体は、背中と下腹部から両足の膝にかけて内出血で陰惨な色におおわれ、股には釘か錐を打ち込んだような痕が15~16以上あり、首には深い細引の痕があった。右の人差し指は手の甲につくまで完全に折られ、すさまじい拷問の痕がくっきり残っていた。しかし、警察は死体の解剖を認めず、心臓マヒだと強弁した。治安維持法による特高の拷問などによる虐殺は179名(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)にものぼった。

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2007年11月 3日 (土)

今日は何の日 11月3日

帝国在郷軍人会を結成

1907年(明治40)年の「帝国国防方針」制定を契機に、陸軍は大軍拡計画をすすめていたが、それは日露戦争後恐慌下にあった日本経済を一層圧迫する原因となっていた。そこで現役役年限が2年に短縮されたのを機会に、平時兵力を押さえて戦時動員兵力を大量に確保し、あわせて軍国主義思想を普及するため帝国在郷軍人会が1910(明治43)年この日結成された「国民の軍隊化」あるいは「軍隊の国民の軍隊化をスローガンに、後には約300万人の会員を擁することになった。。

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